学生トライアスリート雑記

練習記録とレースレポートと+α

「面白さ」を創り出すのは自分自身

先日、大学生ならではの空白時間を持て余した友人に「何か好きなことでもやれば?」と言ったら、「じゃあどうしたら好きなことが見つかるか教えてよ」と返された。

よくよく考えてみればこれはおかしな返答で、好きなことは「見つける」というよりも「育てるもの」、或いは「創り出すもの」ではないだろうか。それがどこか道端にでも落ちているのなら見つかるかもしれないが、「道端に好きなものが落ちていて、偶然それを見つけて拾った」という話は聞いたことがない。思うに、そもそも「面白さ」とは理解から生まれるものだ。理解しないうちに「面白さ」を求めるほど突飛なことはない。例えば、私は今トライアスロンをしているが、面白いからトライアスロンをやり始めたという人は未だ出会ったことがない。「百聞は一見に如かず」よろしく、トライアスロンを知って、実際にやってみて、学んで、理解して、はじめて面白いのだ。面白いからトライアスロンを始めるのではなく、やっていると次第にどうすれば上達するのかが分かってくるから、「面白くなる」のである。そしてこの時、「トライアスロンは面白い」という感情が先なのではなく、「まずトライアスロンをやろう」という意思が先にある。これが重要なのだ。

そしてこれは、能力についても同様に言える。例えば、「泳げるようになるまでは水に入らない」という人は、永遠に泳げるようになれはしない。泳ぐ能力というものは、泳ぎの中で身に付くものだ。「英語が話せるようになるまでは海外に行かない、留学をしない」というのもまた然り、間違ったやり方だろう。私が私淑するゲーテの言葉に「若いうちに大作を書こうとするな」というものがある。曰く、大作を書こうとするから何も書けなくなってしまうのだから、先に結果を考えていればできることなど何もない。つまり、「できる」というのは「やってみたらできた」ということらしい。

何が言いたいかというと、やらずに「できない」と思ったとき、それは本当にできなくなることであり、それだけ自分の能力を自身の手で制限してしまうことでしかないのだ。

私のよく知る学生トライアスリート連中は、「トライスロンをやればやるだけトライアスロンが好きになった」ということを折に触れては口にしている。彼らもはじめからトライアスロンが好きだった訳ではなく、トライアスロンに打ち込むことがトライアスロンへの情熱を自らの内に湧かせ、そしてその新しい情熱がトライアスロン熱をより熱く大きくしていったのだろう。

今までの価値と異なった価値に基づいて行動したからといって、明日にも意欲が猛烈に湧いてくる訳ではないのは誰もがよく分かっていることだ。新しいことを始めて、三日坊主になったことのない方が少ないのだから。そしてこれは私の個人的な考えであるが、私たち人間の興味には「自然の成長」というものが備わっている。すぐに何かが上手くなる訳でもなければ、何かを始めてすぐに面白くなるという訳でもない。自然の成長とは決してそんなに早いものではなく、一度解放された意欲や、想像力や、関心には、植物に毎日水をやり育てるように、大切に養わなければならない。

私が「トライアスロンをやっている」と語ると、その友人は「いいなあ」と羨ましそうに言う。しかし、端から見るのと実際にトライアスロンをやるのとでは、ご存知の通り全く違う、別のことなのだ。

まず、第一にお金が掛かる。トライアスロンとはスイム、バイク、ランを連続して行う競技であるが、それぞれ3種目の機材が必要になる。トライスーツ、ウェットスーツ、ゴーグル、ロードバイク、バイクシューズ、サングラス、ランニングシューズ、練習用の水着、練習用のバイクウェア、練習用のランニングウェア等々、挙げてみれば枚挙に暇がない。これらに加えてレースに参加するためのエントリー費、大会会場までの交通費、そして宿泊費等も上乗せされるため、頭を抱えるばかりである。

第二に、時間が掛かる。人によってメインレースとして設定している距離が違うために一様には言えないが、少なくとも競技時間は1時間を跨ぎ、長ければ半日を超える。すると必然的に練習へ割く時間もその分長くなり、ここに大会会場への移動時間や滞在時間なども可算されるため、掛かる時間がみるみる増えていくのは容易に想像できるだろう。

そして第三に、労力が掛かる。これは考えるまでもなく「辛い・厳しい・苦しい」と三拍子揃ったイメージが定着している節もあるが、実際にやってみるとこれがまた本当に辛く厳しく苦しい。夏は炎天下の中、真っ黒に日焼けしながらスイムバイクランの3種目を練習し、また真冬の中でも猛烈な寒さを辛抱しながら3種目を練習する。「一体何のためにこんなにも辛くて厳しくて苦しいことをしているのか」と練習中のみならず、レース中においても自問自答し続けるのが私たちトライアスリートであり、この競技の印象たる所以だろう。(なるほどこれらの諸投資を補って余りある見返りがあるからこそ、私たちはトライアスロンをしている訳だが、それは今回の主旨とは逸れるためまた別の機会にでも書こうと思う。)

また、自分が招かれてトライアスロンを始めるのと自分からトライアスロンを始めるのでは、天と地との差がある。これは私の体感だが、大学に入ってからトライアスロンを始めた者のうち、およそ4割は1年の間にやめてしまう。一度に20人が入部して、3年後には5人も残らないなんてことはザラにある。この時、何か他のことを学ぶため、或いは何か別のことを始めるためにトライアスロンを犠牲にしたのなら納得できる。しかし、トライアスロンを手放しても、取り立てて何か勉強をする訳でもなく、何か新しいことに挑戦する訳でもなく、ただただ無為に空白時間を生温く過ごしているとしたら、それはとても哀しいことだ。

一つ示しておきたいのは、「はじめから好き」という競技や物事など滅多にないことをもっと考えてほしい、ということ。

よく、「私は良い先輩や、友人や、先生に巡り合えなかった」という言い訳を耳にする。確かに運悪くそういうケースもあるだろうが、大抵の場合、それは自分自身が良い後輩、良い友人、良い学生ではなかったことを表しているに過ぎない。良い友人とは、ある日突然現れてくるものではなく、ごく普通の友人が、様々な積み重ねをしていくその過程で、段々と良い友人になっていくものだと考えられないだろうか。人にしろ、サークルにしろ、大学にしろ、学問にしろ、ほとんど全ては自分自身から積極的に働き掛けをすることによって、はじめて良いものになっていくのだ。

そうしたことを考えると、誰もが、余りにも何かをしてもらうこと、或いは与えてもらうことに慣れ過ぎているように感じる。もちろん私にもその気が無い訳ではなく、私を含めた最近の学生諸氏に欠けているのは、この自分の責任で周囲に働き掛けていく姿勢ではないだろうか。そして、大学生でいる時間というのは、決して欲求を充足させるための時間ではなく、価値を獲得するための時間だということを忘れてはいけない。

また、これも大学生であれば避けては通れない話題であるが、自分の大学について、よく世間がするように、有名大学だとか無名大学だという評価があっても、それを本気で信じてはいけない。自分の大学についてはもちろん、自分自身のことについても、世間の評価よりも自分の評価の基準をもつようにしなければならない(もちろん世間的な評価が有用な場合もある)。というのも、はじめから有名大学や無名大学であった大学など存在せず、 ニワトリが生む卵によってその価値を判断されるように、その大学の学生が有名なのか無名なのか、ということが評価の分水嶺ではないのか。

私たち「学生」は、学ぶ意欲があるからこそ学生と言えるのだろう。教えることのできなくなった先生はもはや「先生」ではなく、学ぶ意欲をなくした学生は「学生」とは言えず、そんな教えることのできなくなった先生と学ぶ意欲を失った学生が集まった大学は、なるほど「無名大学」である。どんなに良い卒業生や、どれほど整った設備に恵まれていたとしても、無名大学でしかない。

かの第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの大統領就任演説に、有名なフレーズがある。

”And so,my fellow Americans: ask not what your country can do for you—ask what you can do for your country.”

(意訳)「アメリカ国民の諸君、国があなたたちの為に何をしてくれるかを問うのではなく、あなたたちが国の為に何ができるかを問い給え。」

John F. Kennedy Inaugural Address - January 20, 1961

第35代ジョン.F.ケネディ大統領就任演説(英語テキスト付き)1961年1月20日 - YouTube

今、この文句を言い換えてみれば、「大学が自分に何を与えるかを問うのではなく、自分が大学で誰か他人の為に何ができるのかを問い給え」となる。つまり、何かをしてもらうことばかり考え、与えることを考えないのは、意味も価値も何もないのだ。そんな生き方は「つまらない」という形容が正にしっくりとくるだろう。

たとえ第一志望でその大学に入学しようが、第三第、第四志望で入学しようが、それ自体に何も問題はない。滑り止めの大学に入学したからといって、直ちに敗北者になる訳ではない。しかし、大学を卒業するとき「この学生生活は本当に素晴らしいものだった」と思えなければ、その時こそ、青春の敗北者となるのだ。これは自戒の念と私の姿勢を正すという意図をも込めて書き留めるが、もしこの大学を自分の意思で選んだのではないとしても、卒業後にどこかの大学をもう一度選ぶ機会を得たとしたら、今度は自分の意志でこの大学を選びたくなるような、そんな学生生活を送るべきだ。

たった一度の人生を、たった一度の青春を、たった一度の学生生活を、単位稼ぎと愚痴と言い訳で終わって、本当にいいのだろうか。いいはずがない。そう、誰もそんなものは望んでいない。人生が生きるに値するかどうか、それはつまるところ各々次第であって、この「各々次第」という部分こそが最大の困難なのだ。そして自分の人生を生きるに値するべく足らしめるには、覚悟を決めてその困難と向き合い、少しずつ折り合いをつけていくこと以外、何もできることはない。

誰も自分に代わって自分の人生を生きてはくれない。誰も自分に代わって自分の進む道を選んではくれない。誰も自分に代わって青春の戸を叩いてはくれない。「とりあえず大学に行けば何か良いことがあるだろう」と考えている人は、「トライアスロンをやれば充実できる」と思い込んでいる友人と同じだ。もとより人生には何もない。大学にも何もない。トライアスロンにも何もない。言うまでもなく、その「面白さ」を創り出すのは自分自身なのだから。

 

 

今週のお題「わたしのモチベーションを上げるもの」